「着てみてくれないか」
「え……今?」
「ああ、俺が着せてやるから」
ドレスを広げ、沙耶の腕を取り袖を通す。
うっすらとした輝きを放つ生成色のドレス。
本当はオフホワイトの方が似合うと思ったが、花嫁衣裳に見えてしまう気がしてこっちの色を選んだ。
襟から胸元にかけてのレースはケミカルレースだろうか。
肩口のラッフルはチュールとシフォンを重ねてあり、絞られたウエストのラインが美しい。
「……着せ替え人形になったみたい」
その声に含まれたわずかな憂いで、お前が今、何を思い出しているのか分かってしまう。
「嫌か?」
「ううん。大切にされてる感じがして、ちょっと嬉しい」
お前がそれに気付かれないように微笑んでみせるから……だから俺も、その嘘に気付かない振りをした。
背中の編み上げでドレスが体に沿うようにラインを調節し、
襟元のリボンをほどき、スタンドカラーの首元まできっちりとボタンを留める。
「……出来た」
リボンを結び直し、裾のドレープを整えて角度を調節してドレスを着せ終えた。
「似合う」
少し距離を取って沙耶を真正面から見つめる。
「そう……?」
「ああ、絶対にお前に似合うと思ったんだ」
沙耶に……目の前の少女に魅入られる。
ショウウインドウの中にドレスを見つけた時よりも、もっと強く。
少し力を入れたらすぐに折れそうな首筋。
しなやかな肩の曲線も、つややかな手足もドレスを着るために生まれたようだ。
幼い頃、絵本の中のお姫様を指差しながら女の子はドレスが似合う生き物だと教えてもらった。
だから沙耶には、こんなにドレスがよく似合うのだろう。
……あの人の望んだ人形、そのままに。
髪を梳かし、サテンのリボンを髪に結ぶ。
幼い頃、いつもそうしてもらっていたように……。
「今日ね……私、朔也が帰ってこないんじゃないかと思った」
「ごめん」
「ううん。帰ってきてくれて良かった」
痛々しい顔で微笑む沙耶に何を言えばいいのか分からなくなる。
「雨、まだ降ってるね」
「そうだな」
「早く、止めばいいのにね……」
夢見るような視線が窓をすり抜けていく。
……ほら、今もお前は俺を見ていない。
「お前、ストックホルム症候群って知ってるか?」
「……ううん、知らない。病気の名前?」
「病気というよりは症状だな。犯罪に巻き込まれた被害者が次第に加害者に親近感や好意を抱くことをそう呼ぶ」
「……なんで今、そんなこと言うの?」
「分からないか」
「分からないよ」
沙耶の表情がぐしゃりと歪む。
泣かせたいと思っている訳では無い筈なのに、どうしてだろう。
時々俺はこうしてお前を傷つけたくてたまらなくなる。
「目を閉じて、胸の前で手を組んで」
「うん……」
悲しみを隠して目を伏せる表情が美しかった。
幼い頃繰り返し読んだ絵本の中のお姫様。
血のように赤い唇の白雪姫。
濡れた瞳のシンデレラ。
物憂げな人魚姫。
その誰にも沙耶は似ていない。
普通の、どこにでもいるようで、だけど、どこを探してもいなかった少女。
「沙耶」
「なあに」
呼びかけると俺を見つめる。
「沙耶」
もう一度呼ぶと、不思議そうな顔をする。
「……沙耶」
次に呼んだ時はもう、俺の声は声にならない。
不恰好に震える手を握り締めて、どうしたらいいか分からないまま顔を伏せている。
「朔也」
沙耶の手がそっと俺の頬に触れる。
「どうして泣いているの?」
「……泣いてなんかいない」
嘘じゃない。
お前はここにいて、消えてなんかなくて、だから俺は、こうして泣く必要なんてないはずなのに。
それなのに、どうしてこんなに全てが恐ろしいのだろう。
隣で眠るお前が消えてしまう夢を見る。
朝、目が覚めて繋いだ手がほどけていただけで死んでしまいたくなるなんて、そんなこと言えるわけがない。
「……分かってる。お前は幻じゃなくて、ここにいて、いなくなったりしていなくて」
「うん」
「だけどいつかは……いなくなってしまうんだ」
いつの日かお前は呼吸することを止める。
固く閉ざしたまぶたを二度と開くことなく、唇を永遠に沈黙させて冷たくなっていく。
白い国へ行ったお前は俺のことを忘れるだろう。
花の咲く草原を駆け、うたうように笑い、自分の在るべき場所に還る。
そして俺達は二度と出会うことはない。
悪夢には際限がない。
俺が一番信じられないのは、自分自身のこの手なのだから。
窓から差し込む月明かりが生成色のドレスを真珠色に染めていた。
細い肩を抱き、薄い背中にそっと口づける。
「お前、運命の二人は肩甲骨の形が同じなんだっていう話、知ってるか」
「肩甲骨の、形?」
「そう、昔生えていた翼が対だったから、翼を失くした今でも運命の二人は同じ骨の形をしているんだっていう話」
「素敵なお話だね」
以前、眠る沙耶の背中に触れて確かめたことがある。
俺と沙耶の肩甲骨の形は違っていた。
落胆はしなかった。
だから俺は、沙耶の背中に翼が生えていないことに感謝するべきなのだろう。
この手でお前の翼を折らないでいられることを。
今日もきっと夢を見る。
鐘の音に支配された真夏の陽炎に揺らぐ世界。
現実と虚構の重なった、お前が見る夢とは違う夢を。
鏡の中を探し続けた理想の少女。
このままガラスケースの中にお前を閉じ込めてしまえたら、こんな妄想から解き放たれるんだろうか。
お前を永遠の人形に、してしまえたなら……。
END