雨が降っていたから帰れなくなった。
あの部屋で沙耶がどんな顔をして外を見ているか想像がついてしまったから。
見るともなしに窓ガラスの水滴の軌跡を追いかけ、時折音のない独り言を呟くように唇を動かす。
体はそこにあってもあの部屋に沙耶はいない。
心に飼う鳩を彼方に飛ばして、俺ではない誰かを想っている。
当ても無く街を歩いていて、それで見つけてしまった。
ショウウインドウの中で密やかな光沢を放つ物。
「……」
ずっと遠ざかっていたはずのそれに魅入られて、一瞬で動けなくなった。
買ってしまってからは、これを早く届けなくてはならないとただ急いだ。
傘を差せばいいことは分かっていたのに、どうしてもそうしたくなかった。
水に濡れれば濡れるほどあの頃の記憶が鮮明に浮かび上がるのは何故なのだろう。
早く、沙耶の顔が見たかった。
「どうして傘をささなかったの?」
部屋に帰るとタオルで頭を拭かれた。
「面倒になった。それより、これ」
包んでもらった箱の水滴を服の裾で拭って差し出す。
「お前にやる」
「大きい箱……何が入ってるの?」
「知らない。拾っただけだから」
「え……? う、嘘、だよね?」
「本当だ。捨ててあるみたいだったから拾ってきた」
思いつきで言ったことだったが、よく考えればいきなりこんなものを贈られても不可解なだけだろう。
本当に道で拾ったことにしてしまおうと、俺は即席の嘘を続けることにする。
「だ、だって、爆弾とかかもしれないよ」
沙耶がはっとしたように俺を手で制す。
「私が開けるから……朔也は下がっていて」
「へえ、いいの?」
「いいのって、何が?」
「爆弾が出てきたら、お前一人でどうにか出来るのかって聞いてる」
「……ペンチ、この間買ったから大丈夫」
ペンチで何をどうするつもりなのか知らないが、
真面目な顔で箱を抱えたまま、沙耶が後ずさっていく。
「開けるね」
宣言し、勢いよく箱を開ける。
こいつは普段慎重なくせに変な所で思いきりがいいんだな、と妙に感心する。
そもそも、別珍のリボンのかかった白い箱に爆弾が入っているはずがないと、冷静に考えれば気付くだろうに。
「……ドレス」
たっぷり数秒、箱の中身を見つめていた沙耶が呟く。
「ドレスが入ってる」
「へえ、変なもの捨てるんだな」
「……カードが一緒に入ってたんだけど」
差し出されたカードを覗き込むと、
『天使へ 愛をこめて 朔也』と書かれていた。
「ちっ」
そういえば店でプレゼントだというと、サービスしておきますと店員が意味深な笑みを浮かべていた。
名前を聞かれるから変だとは思ったが、まさかこんなカードをつけていたとは……。
「朔也さんが道に捨てたプレゼントを、朔也が拾ったってことになるね」
「すごい偶然だな」
もう、どうにでもなれ。
「拾ったって言うの、嘘だよね?」
「……ああ」
認めるしかない。
というより、顔の熱が引かないんだからどう考えても誤魔化せないだろう。
これなら最初から素直に渡せばよかったと、今から後悔しても遅い。
それにしても、なんなんだ、天使って。
しかも愛を……って。
人の愛を勝手にカードに添付するな。
絶対に今度あの店にクレームを入れてやる。
「ありがとう」
ドレスを広げた沙耶が微笑んで、その笑顔が確かに天使に見えないこともなくて、
俺はあの店員を恨むべきなのか尊敬するべきなのか分からなくなる。
あの店員は何故、俺が天使にこれを贈ると分かったんだ。
まさか、超能力か?
「でも私、誕生日とかじゃないけど……いいの?」
「理由がなくたっていいだろう。俺がお前にこれを贈りたいと思った。それだけだ」
ひとめ見て確信があった。
このドレスは沙耶に着られるべきものだと。