蜜月
01 02

――いつか失われてしまうこの時を、俺だけは覚えておこう


俺がその少女に初めて会ったのは、異国に住む友人の家だった。
友人……谷川彰人は俺の高校の時の同級生だった男だ。
俺は高校を卒業してからも、この友人に定期的に会いにいくことを決めていた。
俺にはそうする義務があると思ったからだ。

「……さて」
空港を出て、異国の煙ったような空を見上げる。
今回の訪問はあの訃報の後だったから俺もそれなりに緊張してはいた。
死んではいないだろうとは思ったが、その可能性が捨てきれるわけでもない。
……そもそも谷川彰人が生きていると、誰が言えるのだろう?
知らずに吐いたため息が、ますます気分を憂鬱にさせた。


「柿澤か、突然だな」
俺を迎えた谷川は以前と何ら変わりがなかった。
そろそろ三十も近くなるというのに痩せた体つきと下ろしっぱなしの髪はまるで学生のようだ。
こいつは年をとらないんじゃないかと思うことすらある。
「ああ、久しぶりだな」
率直に言って俺は安堵してした。
少なくとも表面的には、目の前の男が普通に見えたからだ。
「元気だったか?」
「ああ、変わりない」
言葉の少ない返事は相変わらずだったが、声が違う。
その瞳には、どこか生気が宿っているような印象すら受けた。
「とにかく上がれ」
「ああ、そうさせてもら……」
そう言いかけて言葉を呑む。
「……なんだ?」
「いや、今お前の背中に何か見え……」
俺はまず自分の目がおかしくなったのかと思った。
次にこれが幻影じゃないと分かると、谷川の頭がおかしくなったのだと思った。

「……」
谷川の背中には、べっとりと小さい女の子がしがみ付いていた。

「……沙耶、部屋で待ってなさいって言っただだろう?」
「だって寂しかったんだもん」
沙耶、と呼ばれた少女がふてくされたように答える。
一体何なんだ、これは。
谷川はどこでこんな拾い物をしたのだ。
まさか俺の友人は犯罪に手を染めてしまったのか。
「お前……」
一歩後ずさると、谷川が俺を手で制した。
「あー、お前の言いたいことは分かる。ちょっと待ってくれ」
谷川が少女を振り向く。
「沙耶、重いよ。離れなさい」
「いや」
「いや、じゃない。ほら大丈夫、出ておいで」
宥めるように谷川が少女の頭を撫でる。
それはとても自然な動作で、日頃から谷川がそうしていることが伺えた。
少女がちらりと怯えと警戒の入り混じった視線をこちらに向ける。
……明らかに歓迎されてないな、俺。
「……はは」
どうしていいか分からずに引きつった笑いを浮かべると、少女はそれを友好のしるしだと思ったのだろうか。
ようやく谷川の背中から顔を出し、俺の目の前に立った。

「……」
日本人、でいいのだろう。
それにしては瞳の色が深すぎる気もするが。
子ども特有の澄んだ瞳孔は意志の強さを感じさせ、頭の中でぐるぐると色々なことを考えているのを映し出しているようだった。
胸の前で手を組んでじっと俺を観察している少女の眼光は鋭く、小さい肉食獣を連想させた。
まだ子どもといっていい年だろうに、あどけない容姿と裏腹にどこか達観したような印象を受ける。
この子は特別な子だと、なぜか分かった。

「ほら沙耶、挨拶」
「ん……」
谷川に促されて、少女がこくりと頷く。
その仕草に不意に、記憶が疼く。
……何だ?
昔……遠い昔に俺は、この少女によく似た人間と会った事があるような気がした。
「はじめまして……あ、日本語でいいの?」
あ、の形に口を開いたまま少女が谷川を見上げて聞く。
いや、俺どこから見ても日本人だしさっきから日本語しか話してない。
この子、見た目と違ってちょっと抜けているのだろうか。
「ああ、通じると思うぞ」
「うん、分かった」
こくんと頷く少女を見て、俺は抗議の声を上げた。
「おい谷川」
「冗談だ」
谷川が目を細め、笑う。

その時俺は、今度こそ驚きで死ぬかと思った。
だって俺は……谷川彰人が笑う姿を、実に十数年振りに見たのだから。

「えっと、はじめまして」
呆然とする俺には気付かずに、少女が俺に向かって小さくお辞儀をした。
「あ、ああ、はじめまして」
慌てて俺も会釈する。
「私は宮野沙耶です。十一歳です。その、ええと、彰人の……家族です」
「ああ、そうなんだ。俺は柿澤到です……って」
宮野、って……まさかこの子。
谷川に視線を移すと、黙って頷く。
そして何も言うなという目配せを送ってきた。
「……?」
絶句した俺を見て目の前の少女が不思議そうに首を傾げている。
その存在を知ってはいたが、まさかこんな所で会うとは想像もしていなかった。
さっき似ているとイメージは、やはりあの人だったのだろうか?
……分からない。似ている所を探そうにも少女は幼すぎた。
俺の知るあの人は大人だった。
かといって父親の面影があるかと言えば、そっちとも重ならない。
「……」
俺の無作法な視線に少女はまた谷川の背中に隠れてしまう。
「……沙耶、だから引っ張るなって」
「ここがいいの」
谷川にべたりとくっつく少女の声音には、まるで恋人に甘えているかのような気安さがあった。
「困ったな……ああ、そうだ。とりあえず、お茶を入れてくれる?」
「お茶?」
「ああ、ほら、この間紅茶の葉っぱを買っただろう? あれを使いなさい」
「うん、分かった」
少女は用事を言いつけられると大人しく頷いて、谷川の背中から離れる。
俺をちらりと見ると、もう興味ないと言わんばかりにすぐに視線を外して部屋の奥へと消えた。
「詳しい事は後で話すよ。とりあえず入ってくれ」
「……ああ」
頷いて、家の中に上がらせてもらう。
谷川の背中を見ながら、俺は衝動がこみ上げてくるのを、必死に押さえつけていた。
「なんだお前、顔を伏せて」
「いや、何でもないよ」

つまり、笑顔を。









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