AIR UMBRELLA

Akito

「……」
帰宅すると沙耶が玄関で眠っていた。
うつぶせになり、ぴくりとも動かない。
これで人差し指に血痕でもついていたら、完全にダイイングメッセージを書き残そうとして息絶えたようにしか見えなかっただろう。
「沙耶」
少し考えてから、起こすことにした。このまま起こさずにベッドまで連れていくことも出来たが、こんなことが起こるのは今日でもう何度目になるだろう。
今日こそはきちんと叱らなければならない。
「ん、彰人……?」
肩を揺すると、うっすらと目を開けた。
ゆっくりとまばたきをし、ふらふらと視線を泳がせる。
「あ、おかえりー」
気の抜けた声でそう言って、嬉しそうに破願する。
「……ただいま」
叱ろうと思っていたのに、つい、毒気を抜かれて普通に返事をしてしまった。
とりあえず手を引くと、のそのそと起き上がる。
「なんで、こんな所で寝てるんだ?」
「えーと、ここで彰人のこと待ってて……。あれ、今私寝てたの?」
「寝てたよ」
「あ、そうなんだ。覚えてない」
「覚えてなさい」
「うん、覚える」
とろりとした目つきのまま頷く。
どうやら、まだ寝ぼけているようだ。
「ほら、起きなさい」
「どこでも眠れるのはサバイバルを生き抜く賢い知恵だって学校の子が言ってたよ。私はこの能力を伸ばすべきなんだって」
「まさか、学校でも、床で寝てるんじゃないだろうな?」
「あはは、ないない。家でだけだよ」
「……安心した」
「それに、眠れないより、眠れるほうがいいでしょ?」
正論だ。
こちらに来たばかりの頃、環境が変わったせいか沙耶は一人だと眠ることができないことがあった。
少しばかり度が過ぎているような気もしたが、その時のことを思うと今は悪い状態ではないということなのだろう。
「先に寝てなさいって連絡しただろう?」
「でも待ってたかったんだもん」
「でも、じゃない。こんな所で寝たら風邪を引くから」
「平気。私、丈夫」
「平気じゃない。ほら、手がこんなに冷たくなってるじゃないか」
手に触れると、ひやりと冷たかった。
「彰人の手、あったかい。眠くなる……」
語尾が不明瞭になり、またうとうとしはじめる。
本当に、この子はよく眠る。
「……沙耶、寝ない」
床は、どうかと思うが。

結局、抱き上げてベッドに運んでしまった。
「おやすみ」
ベッドに横たえ、布団を口元まで引っ張り上げる。
だが、沙耶の目はしっかりと開いたままだ。
「そう言われると眠くなくなるかも」
「いいから、眠りなさい」
髪を撫でると、沙耶がくすぐったいとかすかに笑う。
「起きろって言ったり、眠れって言ったり、彰人って忙しいの」
そう言って、ごそごそと起き上がる。
どうやら完全に目が覚めてしまったらしい。
「今日のお仕事、どんなだったの?」
「風景、山の方行ってた」
「そう……怪我とか、してない?」
「してないよ」
「ほんと?」
「嘘をついたって、仕方ないだろう」
「だって、彰人は血が流れてても気付かないんだもん」
沙耶は俺の額の辺りをじっと見て表情を曇らせた。
「ねえ、もう、痛くない?」

-・・・- -・--・ ・・-・・ ・---・ -・--・ --・・

二週間ほど前、沙耶を連れて郊外の洞窟に出かけた。
仕事の為の写真を撮る俺の横で、沙耶は興味深そうにあちこちに視線を巡らせていた。
「つめたい……」
突き出した岩を触っては、すぐに手を引っ込めたりしている。
「一人で奥に行かないように」
「うん。ねえ、暗くて静かだね。すごいね」
「そうだな」
「ここ、クマ住んでないかな?」
「いたとしても、あれは寒さに弱いから出てこないだろうな」
「そっか、残念」
本気で残念そうに言う沙耶にクマの危険性を伝えるべきか少し悩んでいると、不意に足元がぐらついた。
顔を上げ、ぱらっと砂塵が舞った……と思った瞬間だった。
「沙耶!」
響くような振動が伝わる。
隣にいた沙耶を引き寄せて、体ごと覆うように腕の中に入れた。
「え、え?」
「目を閉じて、口も開けないで」
「……う、うん」
沙耶が頷いたのと同時に、崩れ落ちるような音が響く。
背中に小さな衝撃を感じて、沙耶を抱く腕に力を込める。
落石だ。
「……」
音が静まり、顔を上げる。
土煙で視界が悪かったが、崩れた部分を見ると、大した規模ではなく入り口がほんの少し崩れただけのようだった。
「……大丈夫だ、もういいよ」
沙耶を腕の中から離すと、怯えた顔をしていた。
「今の……なに?」
「上の岩が崩れたみたいだ。早く出よう」
「……」
「沙耶?」
腕を引くが、沙耶は顔を強張らせて動こうとはしなかった。
「……彰人、血が」
言われて顔を触ると目の上から、たらっと血が垂れていた。
「ああ、本当だ。血が出てる」
傷口に触れ、自分の手についた血を確認する。
「手当てしないと……」
「大袈裟にしなくていい。これくらいの傷で人間は死なない」
気づかなかったが、大きめの石で切れたのだろう。
手についた血をシャツで拭い、反対の手で沙耶の頭の無事を確かめた。
「それより、怪我はなかったか?」
「私の心配してる場合じゃないよ。ねえ、痛くないの?」
「平気だよ。それより、危ないから、ここから出よう」
沙耶を庇うように立ち上がり、洞窟を出た。

屈みこみ、明るいところで改めて沙耶を点検する。
どうやら本当に、怪我はない様子だった。
「ごめん」
「なにを謝ってるの?」
「危ないところに連れてきたりして。本当に、どこも痛いところはないか?」
髪についた土煙をはたき、頬の汚れを拭おうとすると沙耶が思いつめたように言った。
「……なんであんなことしたの」
怒っているのが一目で分かる顔をしていた。
だが、なぜ沙耶が怒るのか、俺には思い当たることがなかった。
「あんなことって、何だ?」
「彰人、私のこと庇ったじゃない」
「不可抗力だ。石が降ってきたのは、俺のせいじゃない」
空を指差すと、沙耶がますます表情を強張らせた。
「でも、その石は私の頭の上に降るはずだったんだよ」
「沙耶は石が降ってきた方が良かったのか?」
「そうじゃなくて、彰人が私のせいで怪我するなんて嫌なの」
「沙耶が怪我をする方が余程大きな問題だよ」
「……なんで、どうして、彰人はそうなの」
ここで、俺は沙耶が怒っている理由にようやく気づいた。
「もしかして、心配してるのか?」
「当たり前だよ。そんなの、決まってるじゃない」
沙耶が泣きそうになるので、困ってしまった。
怒られるよりも泣かれる方が堪えることに気付いたのは、いつからだろう。

「沙耶」
うつむいた沙耶を上向かせて、目線を合わせる。
「……何?」
今にも泣き出しそうな大きな目で、沙耶はじっとこちらを見る。
「本当に大した怪我じゃないんだ」
「でも、血が出てる。それって、彰人が傷ついたってことでしょう?」
「こんなもの、指を切ったのと変わらないよ。大して痛くないし、痕も残らない」
傷口に触れると、血は既に止まっていた。
「……本当?」
「ああ、本当だ」
大きく頷くと、ようやく沙耶がほっとした顔を見せた。
「危ないことしないでね、お願いだから」
「分かった。悪かったよ」

帰り道、夕暮れの林道を歩きながら沙耶がぽつりと呟いた。
「……私、大きくなりたいな」
「気にしなくても、日本に帰ればそこまで小さくないはずだ」
一向に背が伸びないことを気にしているのかと思い慰めると、沙耶はそうじゃないと首を振った。
「すっごく大きくなるの。彰人よりもずっと」
「俺よりも?」
「うん。それで空から降ってくる色々なものをぱっぱって払うの。巨人のヒーローみたいに」
立ち止まり、沙耶がわずかに目を細めて俺を見上げる。
「私が、彰人を守ってあげられたらいいのに」
「何を言ってるんだ。沙耶のリスクを減らすために俺がいるんじゃないか」
「そんなこと言うと、私、彰人の上にずっと傘をさしてるよ」
沙耶なら本当にやりそうだと、その真剣すぎる顔を見て思った。
この子は他人の痛みに敏感で自己犠牲をまるで厭わない部分がある。
外見は随分と大人びたのに、その純粋と呼ぶべきであろう部分は少しも変わらない。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
あまりにも分かりきった答えから、俺はまだ目を背けている。

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「そういえば、なんでクマなんて見たがったんだ?」
聞くと、沙耶が忘れちゃったの、と頬を膨らませた。。
「ほら、この間、テレビで見たじゃない。ミーシャって名前のクマの赤ちゃん。すっごく可愛いの」
「ああ、あれか。確かにテディベアみたいだったな」
哺乳瓶からミルクを飲む赤子のクマに、沙耶が歓声を上げていたこと思い出す。
「彰人、クマの写真って撮ったことないの?」
「ないな」
「もったいないね、撮ったらいいのに」
「……そうか?」
動物には逃げられることが多いから被写体としてはあまり縁が無い。
「ねえ、今度クマに会いにいこうよ。やっぱりクマって、上に乗ったらやっぱり怒るのかな?」
「その前に襲い掛かってくるだろうな」
「襲われたら、彰人がクマを説得してくれる?」
「……善処しよう」
いざとなれば唐辛子スプレーを使えばいい。
「仲良くなれたら、クマと記念撮影を撮ってね」
「ああ、任せなさい」
自信はないが、蜂蜜があればどうにかなるはずだ。
「うん、わあ、楽しみ」
沙耶が目を輝かせて笑う。
「そうだ。再来週くらいに柿澤がこっちに来ると言っていた」
「あ、そうなんだ。良かったね」
「別に、良いことは何もないだろう。面倒なだけだ」
「素直に喜べばいいのに、彰人ってほんと天邪鬼だよね」
「沙耶ほどじゃない」
わざとそう言うと、沙耶が不満げに頬を膨らませる。
「あ、何それ。私、いい子だもん」
「そうだな。床で寝たりしないいい子だ」
「……彰人の意地悪」
「何とでも言いなさい」
「だって、目を閉じていると眠くなるんだもん」
沙耶は時々、何かを深く考え込むように目を閉じる。
それは、いつか来る何かの時のために備えているのだそうだ。
「ほら、いい子はそろそろ寝なさい」
「あ、うん」
もぞもぞとベッドに潜り込んだ沙耶の頭に手を置いた。
「ちゃんと眠りなさい」
「……彰人の手って」
そう言いかけて、沙耶が言葉を途中で止める。
「俺の手が、何?」
「なんでもない。教えない」
そう言って、沙耶はまた、一人で楽しそうに笑う。
笑っている理由は俺には分からなかったが、特に知りたいとは思わなかった。
単純に必要ではない。
この子がこうして笑っていられるのならば、それ以上のことは何も。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
まぶたを閉じ、安らかな寝息を立てはじめた沙耶の頭をもう一度撫でた。

次の週末は動物園に連れて行こう、と思いながら。



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