僕の初恋の少女
01 02 03 04 05 06 07

――想い出の中の少女はいつもとびきりの笑顔を浮かべている。
――あれは多分、僕の初恋。


彼女との出会いは、もう随分昔のことになる。
僕も彼女も小学生で、ほんの子どもだった。

ある日の夕暮れ。
僕は習い事(なんだったか忘れてしまったけど、多分習字だったと思う)から帰る所で、ランドセルを背負ったまま泣いている女の子を見つけてしまった。

「……ひっく、う、ひ……」
それは多分、僕より少し年下の子だった。
女の子は小さい肩を震わせて泣きながら前進し続けている。
でもその先は、行き止まりなんだよね。知らないのかな?
そのまま黙って見守っていると、案の定行き止まりにぶつかって立ちつくしている。
「う、あ、ひっく……」
もしかして迷子なんですか。ねえ君、迷子なんですか。
女の子の後頭部に向かって心の中で語りかけたけど、もちろん返事はないしその子は振り向きもしない。

さて、どうしたものだろうか。
その場所は通学路から明らかに外れた場所だったし、辺りは暗くなっていてこんなに小さい子が一人で帰宅する時間でもない。

「どうしたの、もう遅いよ」
仕方ない。
僕は良心に負けて、その小さな後ろ姿に声をかける。
「え……?」
「迷子かな?」
振り返った小さな女の子は、この世の終わりみたいな顔をしていた。
一体どれぐらい迷い続ければこんなに泣けるんだろう。
「えっと……」
「大丈夫?」
「あの、あの……」
女の子がしゃくりあげながら、たどたどしく何かを言おうとする。
「うん、ゆっくりでいいよ」
女の子は怯えのまじった目をしていたが、僕のにこやかな笑顔を見て、少し安心したような表情を浮かべた。
そう、僕はこういうのが得意なのだ。
「あの……本屋さんに行けないん、です」
やがて、女の子は服の裾を握りしめたまま、思い詰めた口調で言う。
「本屋?」
「本屋さんの角を曲がれば、家につけるんだけど……本屋さんがなくて……」
本屋って、あのここら辺で一番大きい本屋のことだろうか。
だとしたらここから三十分はかかる、っていうかどれだけ迷えばこんな所に来れるんだろう。
「はい、それ、です」
確認すると本当にそうで、別な意味で感心した。

「分かった。じゃあ、僕が本屋さんまで連れていってあげるよ」
結局、僕は少し悩んで、目の前の子を送り届けてあげることにした。
「え……え、あの……?」
女の子が目に涙を浮かべたまま、戸惑ったように僕を見る。
「遠慮しないでいいよ。困ってる子は放っておけないから」
僕は女の子に笑いかけた。
まあ、それは確かに面倒だったけど、あんまり泣いているのは可哀想だったから親切心で言った。
……これはあくまでも僕の良心に従ったゆえの行動であって、決して目の前の女の子が可愛かったこととは関係がない。
うん、全く。本当にこれは親切心なのだから。

「あ、あのっ」
なのに、次の瞬間、女の子が言った言葉は僕の誠実な親切心を大きく裏切るものだった。
「ご親切はありがたいんです、けど」
女の子の語尾が途切れる。
「けど?」
「……わ、私、知らない人にはついていっちゃいけないって言われてるんです!」
「ごめんなさいっ!」
ぽかんと口を開けてしまう僕に向かって、女の子は勢いよく、ぺこんと頭を下げた。
「……」
数秒の空白。
……なに、今、もしかして僕は拒否されたのかな。

「えー、と」
慣れない体験に頭がクラクラするのを感じながら、聞く。
「君は知らない人とは帰れないんだね?」
「そう、です」
女の子の目には、まだ大粒の涙がたまったままだった。
「じゃあ君、これからどうするつもりなの?」
「……本屋さんを見つけて、家に帰ります」
「どうやって本屋さんを見つけるの?」
「……」
女の子は黙り込む。
「もしかして何も考えてない?」
「はい……」
この子、どうも少し抜けてるみたいだな。そんな所も可愛いけど。
……い、いや、だから違う。
女の子が何の考えもなしに決まり文句を口にしたのが分かって、僕はようやく理性を取り戻した。
「ええと、そうだな。あ、僕は九条春臣って言うんだけど、君は?」
「あ、私はあの、宮野沙耶って言います。二年生です」
知らない人に名前を教えるのはどうなのかという問題については、今は聞かないでおこう。
ますます混乱させるだけだろうから。
「二年生なんだね」
僕よりひとつ下だった。低学年ならしょうがないか……。

「宮野沙耶ちゃんか。多分同じ学校だよね。あ、じゃあこれから僕と仲良くしてくれるかな」
僕は完全に余裕を取り戻して、にっこりと女の子に笑いかける。
「あ……はい」
こっくりと頷く女の子に、僕は手を差し出した。
「仲良くするんだから、ほら、握手しようよ」
「え……あ、はい」
言われるままに手を差し出し、女の子がおずおずと僕の手をつかむ。
震えている小さな手。
うん、どうやらこの子はイエスマンだな。
「良かった。僕、もう知らない人じゃないよね?」
「え……?」
「握手したんだからもう知り合いだと思うんだ、僕達。違う?」
僕の言葉を聞いてぱち、と女の子がまばたきをする。
少し考えてるような間があって、やがてこくんと頷く。
「知り合いに……なりました」
「そう、それに君は僕と仲良くしてくれるって言ったよね?」
握られた手を揺すってたたみかけるように言うと、女の子がまたこくこくと頷く。
「言いました……」
「うん、じゃあ僕は君を本屋さんまで送っていってもいいかな?」
いいよね、と言うと、女の子が唇を結んでまた暫く考えこむ。
「……じゃあ、お願い、します……」
時間をかけて、ぎこちない了承を得ることが出来た。
警戒心の強い動物の餌付けに成功した気がして、僕はなんだか嬉しくなった。

「じゃあ、行こうか」
「は、はいっ」
歩き出すと、女の子……宮野さんは小走りについてくる。
……おっと。
歩幅を小さくすると、宮野さんが息をはずませながらありがとうございます、と小さく呟くのが聞こえた。
「君は、もしかして引っ越してきたばかりとか?」
「はい、転校生、です」
「そっか。僕は三年だけど、学級委員をやってるんだ。だから、何か分からないことがあったら聞きにきていいよ」
「ありがとうございます」
宮野さんがまた、ぺこりと頭を下げる。
礼儀正しい子だ。
きっと、親の教育がいいのだろう。

そのまま安心させるように話をしながら歩いて、本屋の前に着く頃には宮野さんの頬の涙は乾いていた。

「本屋さんだ……」
「うん、本屋だね」
「本当にあったんだ……」
「それは、あるよね」
「本屋さん……すごいです……」
砂漠でオアシスを発見した旅人のような顔で本屋を見つめている横顔。
どうやらこの子は、本屋がここにあることに本気で感動しているらしい。
僕は思わず、くすくすと笑ってしまった。
「じゃあ、家まで送ってあげるよ」
「え、でも、本屋さんがあるからもう分かります」
「いいの、心配だから、ね?」
ここから迷子になることも大いに有り得そうだから、強引に家まで送っていくことにした。

「あった!」
表札を見つけると、不安げだったの顔がパッと明るくなる。
なんだ、やっぱり自信なかったんじゃないか。
「良かったね」
「あ、あのっ、本当にありがとうございました」
赤く染まる夕陽を受けながら、宮野さんが深くお辞儀をする。
「いいよ、気にしないで。それじゃ」
「あ……」
「もう迷子になっちゃだめだよ」
「はい!」
バイバイと、手を振って別れた。

帰り道。
結果的にずいぶんと遠回りをすることになってしまったけど、そんなことは気にならないくらいに僕の足取りは軽かった。
いいことをすると気分がいい。
特にあんな、素直で可愛い子をピンチから救ったのは。

「……いや、いやいや」
この言い方はちょっと誤解があっていけないね。
僕は、ただ純粋に人助けをしただけなんだ。
そんな、俗な下心なんかあるわけないじゃないか。いや、本当に全く。

分かってる。
今、僕はちょっと浮かれてみただけなんだ。
これが明日になれば忘れてしまうような、ありふれた出会いだということを僕はよく知っている。
学年も違うんだし、あの子と学校で偶然会ったりすることなんてめったにないだろう。
あの子だって明日になれば僕のことなんて忘れてるはずだ。
うん、万事問題ない。僕はいたって冷静だ。

僕は一人頷き、家路を急ぐ。
その日は少し良い気分で過ごしたけれど、次の日にはもう、僕もあの迷子のことは忘れてしまった。










inserted by FC2 system